
最近の傾向として
役の大小を
※セリフを行や文字数で換算したり
※出番の回数で換算したり
※出演頻度、舞台に立っている『時間』で換算したり
※他の役との比較で換算したり
するのが増えている。
しかしこれは若者だけのせいではない
この物理的『損得勘定』の考えを容認してしまっている親や社会のせいでもある
ちなみに上記の全ては完全に『間違っている』
だって
セリフ量や回数=観客の評価にはならないから
(まあ評価される為にやるのもどうかと思うが)
だいたいそういうのに限って
一文字が、一言が『しゃべれてない』
そういうのによく言う
もし誰かが『あなた』の人生を演じる、何十年も育ててくれたあなたの母が死にこの舞台では『母さん』というセリフしか言わないとする。あなたは一言しかない、と言うだろうか、それともその一言は私の人生のかけがえのない一言だからもっと大切にしてほしい、と言うだろうか。
結局人に興味を持つ努力をせず、どこにもあるはずのない『私』に仮想の興味をもつから上記のような考え方になるのだ
僕は下手だろうが上手だろうが関係なくキャスティングするキャスティングは演出だからだ。よくセリフやシーンの追加もするが、それはこの人間が私心を捨て、相手役や座組の為に見返りを求めず行動できたとき、可能性としてある話だ。
果たして、自分の人生を誰か演じる時、そんなにペラペラ話して欲しいだろか。私はそうは思わないが、私の人生を演じる、ならば私の人生は、愛して欲しい。
台本に描かれた
幕末にいた
実際にいた人物達も
そう
願っているのではないだろうか